(月刊「ギャラリー」2014年5月号)
便利なスペイン語がある。「セ・メ・カジョー・エル・プラット」。皿を落として割ったときなどに使用人が言う。
訳すと「お皿が私から落ちました」。さらに言えば「悪いのは私の手を擦り抜けたお皿。私はむしろ被害者です!」という意味だ。これなら「皿屋敷」なんかあり得ない。実はこれ、スペイン語圏だけでなく韓国、中国を含む全ての外国に共通の発想ではないか。
日本人の謝り好き・謝らせ好きは異常だ。道でぶつかりそうになっても謝らないくせに、ちょっと大ごとになるとやたら謝る。倒錯的だ。しかも土下座なんていう土人の習慣まで持ち出して。
謝れば謝るほど外国の相手は居丈高に責めてくるのは、近隣諸国との外交でも恒例である。小保方晴子氏はぜひ徹底抗戦して、韓国人とケンカしても勝てる新しい日本人像を示してほしい。
空間をつくる色彩
国立新美術館で5月19日まで開かれている画家・中村一美展は、いろいろな意味で重要な展覧会だ。平日に訪れたためか約150点の展示作品をほぼ独占できた。2012年4月号で取り上げた同美術館での野田裕示(ひろじ)展の際と同じ贅沢を味わったものだ。初期から最近までの作品を集め、回顧展の趣があるのも野田展同様。
中村絵画が一貫して備える最大の魅力は色彩だ。オレンジ色、赤、緑、紫、水色……。油絵の具やアクリル絵の具の鮮烈な色彩。潤う色。光る色。沈む色。線や面に従わず、色彩そのものが前面に出て動き、画面の中に空間をつくる。縦に落ちる。横に走る。斜めに跳ねる。弧を描く。奥に潜る。あるいは見る者に向かって飛び出してくる。かと思うと謎の沼のように静まる。
具象か抽象かというなら抽象に見える。しかし「破庵」「採桑老」「存在の鳥」といった題名を見てから画面に向き合うとどうか。事物の本質を観念的に引っ張り出した抽象ではなく、実体の図像を中村の極度に個性的な関数で変換したもの、つまり具象の最果ての形態と考えたくなる。「紫烈風」という副題が付いた1990年の油彩を覆うのは、文字通り紫の横殴りの筆の動き。こんなに直接的な〝具象〟は珍しい。別の作品を離れた所から眺めて、まるで嵐だと思って近づいたらキャプションに「テンペスト」とあった。
80年代にはマスキングで筆触を抑えたような格子模様の作品もあるが、やがて絵の具は流れだし、色彩が画面に吹き荒れる。縦でも横でも斜めでも、枠を突き抜け、床を破るかと思われるほど速く強く重い、意志に満ちた動きが、大胆かつ堅固な構図に昇華する。壁画のような巨大画を含む傑作の森が2000年代半ばごろまで続く。
模索の果てに混乱へ
そのころまでに「絵画の社会性について深く考えるようになり」「世界を表象し、批判する絵画構造の実現」を目指した中村は室町時代の絵まで参考にして「空間の整合性を意図的に破綻させた」などと解説にある。
が、絵画を鳥になぞらえたそのころ以降の作品は、マチスめいた装飾性をまとう傍らで、それまで持っていた緊張感や攻撃性を失い、あの動きは鈍り、色は濁り、絵の具は力なく垂れ、構図は不可解な細分化を始める。四方の壁をオレンジ色に塗って金色のジグザグ線を引き「鳥」シリーズを並べた展示室は、狂気の芸術を陳列する場所みたい。「ハマヒバリ」のように落ち着きを取り戻した秀作もあるが、柔軟というよりは動揺しているような、けばけばしい割に頼りない画面が並ぶ。
テロや戦争を前に絵画の意味を模索していた、と解説は言うけれど、中村と親しく、08年に無念の死を遂げた、やはり抽象といわれる画家の和田賢一の最後の作品群が示した混乱と、偶然だろうが似ているのである。最新の「聖(ひじり)」シリーズでもアクリル絵の具の軽快さばかりが目立つ。時に人物みたいな影を見せながら、色彩は自由を持て余しているようで、何を描きたいのか分からない。
世界では無用なのか
展覧会は副題で「絵画は何のために存するのか」「絵画とは何なのか」と問う。展示を全て見ても答えはない。もっと疑問なのは「日本の現代絵画・現代美術の、到達点の一つ」とまでチラシでうたっているのに、世界の現代美術の論壇や市場で、中村の仕事は全くと言ってよいほど関心を持たれていないこと。インターネットは残酷にもそれを示す。前述の野田、一昨年この美術館での2人展で展示した辰野登恵子、それに少し年長の堀浩哉など、一般に抽象とされる他の画家たちも同じだ。あと岡本太郎も。
中村は米国の抽象表現主義を研究してそれを乗り越えようとしたという。乗り越えたなら、今どこに居るのか。一方でゲルハルト・リヒターやベルナール・フリーズといった欧州の抽象的現代画家は常に注目の的だ。これは、アクリルで動きに富んだ画面を作る門田光雅ら中村に続く日本の若手画家にとっても大問題だ。いくら頑張っても世界では永久に通用しないかもしれないから。
国内の大きな美術館で回顧展を開けば十分というのが、わが国の現代絵画の実態なのか。国民同士で問い掛け合い、冒頭に書いたように謝り合い、あるいは褒め合って満足している場合だろうか。
コラムニスト、美術ジャーナリスト 名古屋 覚(なごや・さとる)
1967年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。ミラノ発行の英文現代美術誌「Flash Art」日本通信員。美術評論家連盟会員。秋田公立美術大学非常勤講師。
世界文化遺産のワショクで最強なのはマーボー豆腐。経済的で刺激的で飽きにくく、中国にも広まった。 日本酒にもよく合う。名古屋覚撮影 |
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