名古屋覚の管見ギャラリー10  グローバルジャパン

(月刊「ギャラリー」2014年6月号)

ブラジルも南東部の高地だと冬の6~7月は結構寒い。たまに霜が降りる。サッカーW杯で日本代表が拠点にするイトゥーもそう。そこから北東部の灼熱海岸レシーフェやナタール、中西部の炎熱湿原クイアバに行って戦うのは、秋の軽井沢で合宿しながら沖縄やタイまで試合に出向くようなものでないか。それで優勝するとはすごい。イトゥーは巨大オブジェで有名な町。あやかったのか。

世界市場を目指せ

先月号で日本の抽象的現代絵画はなぜ世界で関心を持たれないのかと疑問を呈したら「世界で通用しなければいけないのか?」「欧米の評価が全てなのか?」と抗議を受けた。いや実は受けていないが、私の答えはこうだ。「なぜ世界で通用しなくてもいいのか?」

基本的に人は良い物を作れば売りたいし、良い物があれば買いたい。だからTPPなのだ。絵画も同じ。日本と比べて(これも大問題だが)欧米文化圏の住宅は広い。壁に絵でも掛けないと間が抜けて寂しい。あちらでは絵画は贅沢品でなくカーテンやバスマット並みの生活必需品だ。気に入った絵を買ってきて飾り、飽きればオークションやバザーに出すか捨てる。現代絵画だって学芸員や特殊な収集家のためではなく、一般消費者のために本来はある。具象も抽象もお好み次第。絵画市場は世界に広がっている。なぜ売りたいと思わないのか。

特に「絵画とは何か」とか世界中の現代画家に共通の問題意識を持って描くなら、世界中で注目されない方が不自然ではないか。しかもわが国の現代絵画の代表とされるほどの仕事ならば。日本代表絵画が世界で通用しないなら、日本の美術教育は根本的に間違っているのではないか。

「グローバル化」という怪談

「音楽は世界の共通語」とクラシック音楽家などが言う。アジア系音楽家でもそう言う。スポーツには世界共通のルールがあるから、日本人選手も世界で勝負できる。サッカーは英国人がルールを作ったけれど、イングランド代表が一番強いとは限らない。日本代表選手も、W杯では優勝すると言ったらしい。なぜ現代美術でも世界一を目指さないのか。

グローバルなんて気にするな、グローバル化とは米国化のことで、まねすると日本固有の文化が失われるとか言う人もいる。グローバルは分かるが「グローバル化」の意味は分からない。人間はグローブつまり地球に誕生した時から現在まで常にグローバルだから。その時代の技術が許す限りどこへでも行き、欲しい物を奪い、邪魔な相手を討った。国境内に閉じこもるのは例外的状態だった。もともと存在しないものに対して警告しても無意味である。

米国は世界中の人々が来たがって集まってつくられる国だ。わが国からも米国に渡ったきり戻らない美術家が少なくない。「米国すなわち世界」はある意味で正しい。ただの国ではない。世界史では常にそういう国とそれ以外の国々の、2種類の国しかなかった。

日本を開け放て

一方で日本固有の文化を世界に売り出そうという動きもある。和食をユネスコ無形文化遺産に登録してもらったり、日本画家の個展がフランスの美術館で開かれたといって喜んだり。しかし、そういうのは全く無意味だと思う。

例えば日本画を世界に発信するならば、その目的は日本画を世界各地で見て褒めてもらうことであってはいけない。日本の全ての美術大学で、日本画科の学生の少なくとも半分が外国からの留学生になる。外国人教員が英語で日本画を教える。同時に世界中の美術大学に日本画科が設けられ、その国の教員が日本画を教える。そうならなくてはいけない。作品ではなく「作り方」を伝える。ルールを世界に提供する。日本画をグローバル文化にするのである。柔道が既になっているように。

和食も同じ。すしは既にグローバルだ。海外のスシハウスは経営者も職人も日本人でないことが多い。それが理想である。多少の改変は容認する度量も重要。世界中から若いシェフが和食を学びに日本に押し寄せ、日本中の料亭の板前に立つようにならないといけない。彼らは帰国して自分のリョウテイを開くか、日本に留まって店を継ぐかもしれない。フランス料理やイタリア料理で日本人シェフの卵がしているように。

オバマ大統領が東京で一流のすし屋に招かれたら、握っていたのは米国出身の黒人の職人だった、というぐらいにならないといけない。日本の誇りを世界へ売り込むという発想は間違い。逆にわが国を開き、わが伝統を世界に明け渡す姿勢が必要だ。大相撲は意外にもそうなりつつある。それによってのみ、日本人の日本画家も板前も真の世界一を目指せるのだ。

ところでW杯でブラジルに行く人もいるかもしれないが、ビーチやプールサイドでくつろいでいるときなどに、うっかり日本語で「いい気分だ」と言わないように気を付けたい。そのまま完璧な発音のポルトガル語で「ヒェー何てケツだ!」と聞こえてしまう。

コラムニスト、美術ジャーナリスト 名古屋 覚(なごや・さとる)
1967年東京生まれ。早稲田大学第一文学部西洋史学専修卒業。卒論は「オルテガにおける歴史哲学の研究」。読売新聞記者を経てジャパンタイムズ記者に。都政などのあとクラシック音楽、ブラジルポップ音楽、能楽、西洋・東洋・現代美術などを担当。以後フリーランス。日本語と英語で執筆。95年からミラノ発行の英文現代美術誌「Flash Art」日本通信員。これまでに「産経新聞」「毎日新聞」「信濃毎日新聞」「朝日新聞」「週刊金曜日」「美術手帖」、「ART AsiaPacific」(豪)、「Art on Paper」(ニューヨーク)などに寄稿。美術評論家連盟会員。秋田公立美術大学非常勤講師。


テキーラなんてメキシコの地酒が日本の酒屋で買えるのは、それが米国文化の一部になったから。「米国主導グローバリズム」のおかげである。米国にあまりに近いのは、テキーラにとっては幸運だった。ブラジルの地酒カシャッサ(ピンガ)は米国経由のバスに乗り損ねた。名古屋覚撮影