名古屋覚の管見ギャラリー12 地下鉄アート

(月刊「ギャラリー」2014年8月号)

20年ぐらい昔。東京の銀座や歌舞伎町で、いわゆる現代アートの作品を街角に設置したりパフォーマンスみたいなことを街なかでやったりという試みがあった。有名になる前の村上隆、痩せていた中村政人、若かった福田美蘭、その後もあまり変わらない小沢剛らが中心だった。私もまだ素直だったから一生懸命取材して英語でも記事を書いた。けれど何か物足りなかった。現実の街の風景の奇妙さが、彼らのアートに勝っていたのである。

街なかの傑作

事実、このほど東京メトロ銀座線新橋駅1番出口で面白い物件を見つけた。

最新デザインの案内板。かなり低い位置に下がっているそれには、黄と黒の警告が施され、くっきりした印字で「頭上注意」とある。

どうしてこんなことになったのか、ジャーナリストなら地下鉄会社に取材して調べるべきなのだろう。が、経緯はどうでもよい。弁解を聞いても仕方ないし、誰かを非難するつもりもない。これを作った人も作るよう指示した人も、字は読めて数も数えられるに違いない。にもかかわらず、こんなことになってしまう。教育水準とは関係ない。地下鉄よりずっと深いところで何かが間違っている。

2月号で書いたように銀座駅コンコースも天井が低く、背の高い外国人が実際に痛い目に遭っているところを目撃した。同じように危険な場所は都内に他にもあるし、全国にはどれだけあることか。江戸時代に造られたのだろうか。

根本的な誤りや本質的な欠陥に対して、表面的な一時しのぎしか思い付かない。実施できない――そんな現代日本を象徴する、これは見事な〝アート〟である。外見の異様さと意味の深刻さにおいて、ヨコハマトリエンナーレに展示中の全作品を束ねても、この傑作には及ぶまい。

元を正さず末に走り

入れ墨をした人の入場を断る公衆浴場やプールがある。普通の人でもよく入れ墨をする外国から来た入れ墨の人はどうしようもない。締め出したいのは「入れ墨をした人」ではなく「入れ墨をした反社会的勢力」だろう。ならば「入れ墨」なんて隠喩を使わず「反社会的勢力お断り」と本質を言明すればよい。いまだに国内事情しか念頭にないのも非常に悪い。

明治大学と明治学院大学は、日本の受験生や採用担当者にとっては全く異なる大学だ。しかし日本の事情を知らない外国人には区別がつかない。どちらを出ていても、英語で論文の一つも書けないようでは大学卒にそもそも値しないのだが。日本では妙なこだわりの対象になっていても世界的には無意味なことは多いだろう。

「自分たちのサッカー」とかいったって、勝てなければ話にならない。「俺の何とか料理」といっても、例えばフランス料理やイタリア料理の食卓では、料理以上に、ゆったりと時間をかけて会話を楽しむことが大事なのだから、いくらうまくて安くても落ち着けなかったら本質的に失格である。

ビールなら、キレだの喉越しだの曖昧な文句をいくら並べて、季節によって缶の絵柄をいくら変えても、末節のごまかしだ。ビールの価値の本質は、原料は麦芽とホップぐらいで、とにかくよく冷えていて、そして何より安いことにあるのだから。ワインやビールは女子供の飲み物。男が飲んでいたら時間つぶしか社交のためだ。

公募美術展をやる団体で不適切審査があったとかが問題にされていたが、それも美術の本質とは無縁のこと。そういう団体の人たちの作品を検証し、それらに美学的、美術史的にどんな意味があるのかをただし、そもそも芸術家がなぜ団体をつくらなければいけないのかを問い詰めるのがメディアの本来の仕事である。

このごろの東京では現代美術館が子供の遊び場と化し、近代美術館が現代美術展をやっている。美術界の根本的な若返りというか、本質的な幼児化の表れかもしれない。

いでよ美術界のセルジオ

サッカーの辛口評論家として知られるセルジオ越後氏は、日本のサッカーが向上するにはメディアに代表される日本の文化が変わらなければいけないと言っている。選手らを根拠なく持ち上げ、負けても温かく見守るだけの日本のメディア。ワールドカップでグループステージを突破できるかどうかが問題にされる程度の実力なのに「優勝」を公言する選手は、普通の国なら頭がおかしいと見なされる。まして、そんな妄言を好意的に伝えるメディアは根本的に狂っているのである。

17年前の事。東京で開かれたある展覧会について私がかなりきつい批判を外国の美術誌に書いたら、企画したキュレーターから呼び出されてさんざん文句を言われた。「辛口批評は外国では珍しくない」と私が言うと「日本では現代美術がまだ根付いていないから、批判は控えて盛り立てるべきだ」とか。その人は今、都内の有名美術館の館長をしている。辛口批評は日本でいつ解禁されるのか、聞くべきだろうか。

わが国の現代美術が本質的に向上するとしたら、それは美術界にも越後氏のような厳しくまっとうな評論家が現れてこそ、だろう。

コラムニスト、美術ジャーナリスト 名古屋 覚(なごや・さとる)
1967年東京生まれ。早稲田大学第一文学部西洋史学専修卒業。卒論は「オルテガにおける歴史哲学の研究」。読売新聞記者を経てジャパンタイムズ記者に。都政などのあとクラシック音楽、ブラジルポップ音楽、能楽、西洋・東洋・現代美術などを担当。以後フリーランス。日本語と英語で執筆。95年からミラノ発行の英文現代美術誌「Flash Art」日本通信員。これまでに「産経新聞」「毎日新聞」「信濃毎日新聞」「朝日新聞」「週刊金曜日」「美術手帖」、「ART AsiaPacific」(豪)、「Art on Paper」(ニューヨーク)などに寄稿。秋田公立美術大学非常勤講師。

せっかくの傑作も、漢字だけでは白い旦那さまたちには分かってもらえないかも。名古屋覚撮影




名古屋覚の管見ギャラリー11 見続ける楽しみ ――ことし前半の展覧会から

(月刊「ギャラリー」2014年7月号)

朝。寝室に付いた浴室でシャワーを浴びる。クローゼットを開ける。たくさんの服と、棚にずらりと並んだ靴。その日の服を選ぶ。その服に合わせて靴を選ぶ。服を着て靴を履き、全身の姿を鏡で確認したら寝室を出る。一日の始まりだ――。

東京・有楽町の第一生命南ギャラリーで7月4日まで開かれている画家・佐藤翠の個展。作品に描かれたクローゼット内の光景は、そんな場面を想像させる。佐藤は日常だけでなく「想像を超える異文化」に出合った際の「衝撃、喜び、高揚」も題材にするという。普通、日本の住宅の寝室で靴を履くことはない。そんな場面を演じるなら玄関から寝室まで靴をつまんで運ぶという奇行をやらねばならない。この絵は異文化の、しかし優雅で自然な光景である。それが衝撃とか高揚を呼ぶとしたら、切ない。

油が無難

棚が堅固な水平線を作り、構図に最低限の規律をもたらす。そこに、細部を適度に追求し適度に省略しつつアクリル絵の具の筆が止まることなく走り、クローゼットの物たちや実物大のカーペット柄を描き出す。神経の行き届いた粗さ、あるいは整頓された弛緩が魅力だ。そうした効果を得る手段として油彩が排除される理由は考えられない。が、日本ではあり得ない光景の虚構性を軽快に表すには、油彩に似て非なるアクリル画はあり得る選択かもしれない。

油絵の具なら潤ったつやを持つ絵肌は、アクリル絵の具だと塗装前のプラモデルのように乾いて味気ない。油彩の表現の幅は極めて広い。なのに油でなくアクリルを選ぶなら、明確な理由が必要だ。ただ佐藤はどこでも目を引く容姿の持ち主。そういう人には嫌われたくないから、許せる範囲の問題は許してしまうこともある。要するに、よほどの理由か自信がない人は、プロとして描くなら油絵の具を使った方が無難ということ。

浴室付きの寝室も日本では夢だ。欧米でも南米でも東南アジアでも中国でも高級住宅は、寝室が4つならそれぞれに浴室が付いているものだ。ところが日本では4LDKの新築マンション(悲しく笑える和製英語)でも浴室はまず1つだけ。各寝室に浴室があれば、現代の忙しい朝に父さん、母さん、兄さん、姉さんが同時にクソをしてシャワーを浴びても大丈夫。そんなことよりオリンピックの期間中、プライバシーに敏感な外国人を空き部屋に泊めておもてなしすることができる。そういう部屋には家主の趣味と財力を示す絵の一枚も掛けずにいられまい。すると美術市場が栄える。

表面だけ西洋風をまねて、ゆとりとかプライバシーとか現代文明の基本には無関心のわが国。基本はイタリア食で風味だけ和風を添えたタラコスパゲティに倣うべきだ。

誤解なのか

佐藤のクローゼットも、東京都美術館で4~6月に大規模展が開かれたバルテュスの絵の中に持ち込んだら切なくはない。「称賛と誤解だらけの」画家と売り込み文句は言っていたが、朝日新聞の別刷り広告にも何が「誤解」なのか書いていない。多分、エロチックな少女ばかり描いたロリコン画家という誤解だろう。

しかし実際、そういう少女が出てこないバルテュスは退屈だ。幾何学的構図で抽象の趣もあるとか評される1960年の風景画も、明るいと同時に寂しい感じを強調した陽光の処理は見事だが、特段画期的な内容とはいえまい。そういう風景画や男の人物画だけでこれほど評価の高い画家になれたか疑問である。むしろレストランの飾りとして描いたらしい猫と魚のイラスト風の絵に、画家の意外な奔放さが見えて楽しい。

日本人妻と一緒に和服を着てスイスのマンション(大邸宅)に住み、裸の少女を描いて「20世紀最後の巨匠」とピカソに言われたというバルテュス。英語をはじめ西洋文化に反発しながら洋服を着て裸の少女を描くわが会田誠は、どんな巨匠になるのか。

画家の美しい生き方

銀座のフォルム画廊で時々個展をする稲毛敦(あつ)という女性美術家がいる。だいぶ前から見続けている。美術あるいは造形芸術という言葉で表される成果の、最も簡素で最も充実した幾つかを必ず見ることができるから。

大きくない画面に、初期には白一色で幾何学的模様を、油絵の具を丁寧に盛り上げて描いていた。この4月の個展では緑やオレンジ色など色彩が登場。幾何学的凸部を持つ画面は陰影を帯びている。それは色の陰影ではない。周囲の光そのものがつくる陰影だ。画面の凸部の効果ではある。が、そもそも油彩には極めて平坦な彫刻という一面もあることを、初期からずっと教えてくれるのだ。

京橋のギャラリー・ビー・トウキョウで毎年黄金週間に個展をし続けている波多野香里は、作品の変化を年ごとに確かめるのが楽しみな画家だ。絵を描くのとは別に、彼女は人命に関わる尊い職業を持っている。登場人物の多くは職場で着想されたものだろう。描写の様式化、色彩の厳選、明暗の激化が、人間に対する画家の視点と思念の深まりを示す。職業人としての成熟と画法の深耕とが軌を一にしている。

絵は売れないかもしれない。国際美術界とも無縁かもしれない。しかし同じ売れないなら、画家といいながら美術大学の教員にしてもらい学生に威張ったりこびたりしてメシを食うより、波多野の生き方の方が人間としてまっとうで豊かで美しい。

コラムニスト、美術ジャーナリスト 名古屋 覚(なごや・さとる)
1967年東京生まれ。早稲田大学第一文学部西洋史学専修卒業。ミラノ発行の英文現代美術誌「Flash Art」日本通信員。秋田公立美術大学非常勤講師。

日本など東アジアでの西洋文化受容が生んだ混沌をタラコスパゲティに例えた樋口昌樹氏(美術評論家連盟事務総長)の理論は2001年「亜細亜散歩」展図録で発表された。
近現代日本文化史研究で必見の業績である。名古屋覚撮影