名古屋覚の管見ギャラリー6 スリッパ蛮国

(月刊「ギャラリー」2014年2月号)

「プッタ・キ・オ・パリウ……」

そのつぶやきを聞き、思わず振り返った。立ち止まって額に手を当てる、背の高い男の国籍はブラジルで間違いない。あの国のポルトガル語で、直訳すれば「おまえを生んだ淫売め」。英語のサノヴァビッチより婉曲で上品なのが分かるだろうか。場所は東京メトロ銀座駅コンコース。異様に低い天井の梁にぶつけたらしい。

身長179センチの私でも、ここを通るとき思わず背をかがめてしまう。どういうつもりでこれを造ったのか。このままオリンピックをやるのか。日本一目立つ場所の、日本一危ない天井。まさに日本の恥だ。

非合理性の象徴

ファンドマネジャーの藤野英人氏は、私と同じ1990年早稲田大学卒業生の出世頭といって間違いないだろう。氏が2004年に著した「スリッパの法則」は評判を呼んだ。社内でスリッパに履き替える会社に投資すると、もうからないという一節が書名になったもの。11年には「図解」も出た。

家に居るのと同じ感覚で仕事をする会社は、はき違えた家族主義が排他的な経営につながり、業績が伸びず株価も上がらない。精密工場など特殊な理由で靴を履き替えるのは当然。しかし、なんとなく汚い感じがするからとか日本の習慣だからとか、履き替えに合理性のない場合は、経営陣が不合理を修正できない、成長しにくい会社であることを示唆する、という趣旨だ。

外から帰って靴を履き替えない欧米などは人が住めないほど不潔なのか、そこには成長企業はないのかと考えると、藤野氏の指摘は合理的である。

貧弱な家の変態

わが国でスリッパが問題なのは経営の世界だけではない。美術でも大問題なのである。

第一に様式感の問題。言うまでもなく、洋服とは靴を履いて初めて様になるものだ。その日の洋服に合わせて靴を選ぶのだから、スリッパなどに履き替えたら調和が台無しになる。サンダルならいいという問題でもない。まして洋服を着ていながら靴を脱いだ状態というのは、タイヤを外した自動車のようなもの。ものすごく不自然で不格好だ。造形を批評する者として到底、見ていられない姿である。報道写真によると、皇室の方々は部屋でくつろいでアルバムか何かご覧になっているときも、きちんと靴をお履きになっているではないか。日本人なら、なぜそれを見習わないのか。

国内の現代美術展では時々、来場者に靴を脱がせて敷物とか造り物に上がらせる展示がある。家に居るみたいにくつろいでほしいとか、白い敷物が汚れるとかの由だろう。が、洋装の来場者に靴を脱がせなければ、つまり鑑賞者自身に造形的欠陥を強いなければ十全に機能しない美術作品とは、なんと情けないものか。家に帰ってもすぐに靴を脱がない国から来た人には、くつろぎも何も関係ない。

そもそも、スリッパというのは寝室でパジャマやガウンを着たときに履くもの。下着に近い。スリッパ姿は、寝室で一緒になる人以外には見せないものだ。そのスリッパを公の場で履いたり、たまたま訪れてきた他人に履かせたりなどは、変態のすることである。誰が履いたか分からないスリッパなど不潔で履けるものではないし。私は、入り口にスリッパが並ぶ医院とかは敬遠するし、スリッパを勧められる恐れのある他人の家にも原則、行かない。

第二に環境の問題。家で靴を脱がなければいられないのは、その家がもともと木や紙でできていたからだろう。スリッパさえ畳の上では脱がねばならない。靴のまま入って力いっぱい踏めば床が抜け、蹴れば壁に穴が開きそうな貧弱な造りの住宅に、大きな油絵とか重たい彫刻は似合わない。コンクリート造りの住宅であっても、完成された美術作品と向き合うには、こちらも完成された、自然な装いでなければつじつまが合わない。洋装ならば、靴を履かずに油絵は鑑賞できないのだ。

つまり、靴を脱がなければ入れない住宅は、油絵などを飾る環境として不適格。だから、そういう家に油絵を買ってきても仕方ない。美術のマーケットがないということである。寝室以外でスリッパに履き替えることに何の疑問も感じない国で、油絵など描いても無意味なのだ。合理性の問題でもある。

近代化やり直せ

文明社会では、人は法律によって禁じられたことのみ避ければよいし、契約によって定められたことのみ行えばよい。首相や知事が法的根拠もないのに電力会社の原発再稼働を妨害する国。残業代も出ないのに自発的に残業するのが当たり前の国。そんな不合理がまかり通る国では、芸術や文化の振興なんか土台無理である。スリッパ現象も、わが国がまだ、合理的な近代文明をまともに取り入れられていないことを表している。近代化のやり直しが必要だ。それには、最新のオフィスビルや歴史的建造物以外は、冒頭の地下鉄駅はじめ貧弱な建物も狭い道も壊して国中を更地にするぐらいの抜本的改革が必要だから、もう空想の域に入ってしまうのだが。

ところで藤野氏は私の遠い友人。二昔は前のことだが、ご自宅に夕食に招いてもらったことがある。その時、もしかしてスリッパを勧められなかったか、そして私は顔をしかめなかったか、今でも気になる。

コラムニスト、美術ジャーナリスト 名古屋 覚(なごや・さとる)
1967年東京生まれ。ミラノ発行の英文現代美術誌「Flash Art」日本通信員。美術評論家連盟会員。秋田公立美術大学非常勤講師。

日本人がユネスコに泣き付いて、素材に執着するひ弱な和食を文化遺産にしてもらうはるか前から、たくましいアメリカ食(や中国料理)は、ほぼ同じ(どこでも手に入る)素材を使って世界で大人気。過保護は見苦しい。名古屋覚撮影







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