名古屋覚の管見ギャラリー11 見続ける楽しみ ――ことし前半の展覧会から

(月刊「ギャラリー」2014年7月号)

朝。寝室に付いた浴室でシャワーを浴びる。クローゼットを開ける。たくさんの服と、棚にずらりと並んだ靴。その日の服を選ぶ。その服に合わせて靴を選ぶ。服を着て靴を履き、全身の姿を鏡で確認したら寝室を出る。一日の始まりだ――。

東京・有楽町の第一生命南ギャラリーで7月4日まで開かれている画家・佐藤翠の個展。作品に描かれたクローゼット内の光景は、そんな場面を想像させる。佐藤は日常だけでなく「想像を超える異文化」に出合った際の「衝撃、喜び、高揚」も題材にするという。普通、日本の住宅の寝室で靴を履くことはない。そんな場面を演じるなら玄関から寝室まで靴をつまんで運ぶという奇行をやらねばならない。この絵は異文化の、しかし優雅で自然な光景である。それが衝撃とか高揚を呼ぶとしたら、切ない。

油が無難

棚が堅固な水平線を作り、構図に最低限の規律をもたらす。そこに、細部を適度に追求し適度に省略しつつアクリル絵の具の筆が止まることなく走り、クローゼットの物たちや実物大のカーペット柄を描き出す。神経の行き届いた粗さ、あるいは整頓された弛緩が魅力だ。そうした効果を得る手段として油彩が排除される理由は考えられない。が、日本ではあり得ない光景の虚構性を軽快に表すには、油彩に似て非なるアクリル画はあり得る選択かもしれない。

油絵の具なら潤ったつやを持つ絵肌は、アクリル絵の具だと塗装前のプラモデルのように乾いて味気ない。油彩の表現の幅は極めて広い。なのに油でなくアクリルを選ぶなら、明確な理由が必要だ。ただ佐藤はどこでも目を引く容姿の持ち主。そういう人には嫌われたくないから、許せる範囲の問題は許してしまうこともある。要するに、よほどの理由か自信がない人は、プロとして描くなら油絵の具を使った方が無難ということ。

浴室付きの寝室も日本では夢だ。欧米でも南米でも東南アジアでも中国でも高級住宅は、寝室が4つならそれぞれに浴室が付いているものだ。ところが日本では4LDKの新築マンション(悲しく笑える和製英語)でも浴室はまず1つだけ。各寝室に浴室があれば、現代の忙しい朝に父さん、母さん、兄さん、姉さんが同時にクソをしてシャワーを浴びても大丈夫。そんなことよりオリンピックの期間中、プライバシーに敏感な外国人を空き部屋に泊めておもてなしすることができる。そういう部屋には家主の趣味と財力を示す絵の一枚も掛けずにいられまい。すると美術市場が栄える。

表面だけ西洋風をまねて、ゆとりとかプライバシーとか現代文明の基本には無関心のわが国。基本はイタリア食で風味だけ和風を添えたタラコスパゲティに倣うべきだ。

誤解なのか

佐藤のクローゼットも、東京都美術館で4~6月に大規模展が開かれたバルテュスの絵の中に持ち込んだら切なくはない。「称賛と誤解だらけの」画家と売り込み文句は言っていたが、朝日新聞の別刷り広告にも何が「誤解」なのか書いていない。多分、エロチックな少女ばかり描いたロリコン画家という誤解だろう。

しかし実際、そういう少女が出てこないバルテュスは退屈だ。幾何学的構図で抽象の趣もあるとか評される1960年の風景画も、明るいと同時に寂しい感じを強調した陽光の処理は見事だが、特段画期的な内容とはいえまい。そういう風景画や男の人物画だけでこれほど評価の高い画家になれたか疑問である。むしろレストランの飾りとして描いたらしい猫と魚のイラスト風の絵に、画家の意外な奔放さが見えて楽しい。

日本人妻と一緒に和服を着てスイスのマンション(大邸宅)に住み、裸の少女を描いて「20世紀最後の巨匠」とピカソに言われたというバルテュス。英語をはじめ西洋文化に反発しながら洋服を着て裸の少女を描くわが会田誠は、どんな巨匠になるのか。

画家の美しい生き方

銀座のフォルム画廊で時々個展をする稲毛敦(あつ)という女性美術家がいる。だいぶ前から見続けている。美術あるいは造形芸術という言葉で表される成果の、最も簡素で最も充実した幾つかを必ず見ることができるから。

大きくない画面に、初期には白一色で幾何学的模様を、油絵の具を丁寧に盛り上げて描いていた。この4月の個展では緑やオレンジ色など色彩が登場。幾何学的凸部を持つ画面は陰影を帯びている。それは色の陰影ではない。周囲の光そのものがつくる陰影だ。画面の凸部の効果ではある。が、そもそも油彩には極めて平坦な彫刻という一面もあることを、初期からずっと教えてくれるのだ。

京橋のギャラリー・ビー・トウキョウで毎年黄金週間に個展をし続けている波多野香里は、作品の変化を年ごとに確かめるのが楽しみな画家だ。絵を描くのとは別に、彼女は人命に関わる尊い職業を持っている。登場人物の多くは職場で着想されたものだろう。描写の様式化、色彩の厳選、明暗の激化が、人間に対する画家の視点と思念の深まりを示す。職業人としての成熟と画法の深耕とが軌を一にしている。

絵は売れないかもしれない。国際美術界とも無縁かもしれない。しかし同じ売れないなら、画家といいながら美術大学の教員にしてもらい学生に威張ったりこびたりしてメシを食うより、波多野の生き方の方が人間としてまっとうで豊かで美しい。

コラムニスト、美術ジャーナリスト 名古屋 覚(なごや・さとる)
1967年東京生まれ。早稲田大学第一文学部西洋史学専修卒業。ミラノ発行の英文現代美術誌「Flash Art」日本通信員。秋田公立美術大学非常勤講師。

日本など東アジアでの西洋文化受容が生んだ混沌をタラコスパゲティに例えた樋口昌樹氏(美術評論家連盟事務総長)の理論は2001年「亜細亜散歩」展図録で発表された。
近現代日本文化史研究で必見の業績である。名古屋覚撮影

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