(月刊「ギャラリー」2013年10月号)
私が大学を出て読売新聞社に入った23年前、日本新聞協会発行の記者の手引書に「新聞倫理綱領」(現在は新しくなっている)が載っていた。その中に「人に関する批評は、その人の面前において直接語りうる限度にとどむべきである」という条項があった。うまいことを言う。日本では、人の面前でその人の批評、特に批判をすることなんてほとんどない(外国でも普通はないけれど)。
朝日新聞社が主催する醜悪な夏の高校野球をなぜ読売新聞が大きく、美談入りで取り上げなければいけないのか、とか納得いかずにすぐ辞め、ジャパンタイムズに入って専ら英語で書くようになった。
英語で書くということ
ロンドンで経済学博士課程にいるという人からメールをもらった。いわく、美術館の民営化を研究している。日本の国立美術館の状況を教えてほしい。そういえば1998年から翌年にかけて1年間、トーキョージャーナルという英語の月刊誌(当時)に、日本の現代美術界についてコラムを連載していた。国立美術館の独立行政法人化案をめぐる美術界の反応を取り上げた回もあった。その回を含めた何本かが、当時ジャパンタイムズに美術批評を書いていたモンティ・ディピエトロ氏の好意でウェブに上げられた。
読み返してみると、一昔以上前に書いたものなのに古くない。しかも同じ内容を日本語で書いていたらかなり反発を買っただろうと思われる、われながら辛口のものばかり。日本語では書きにくくても英語なら書けることは確かにある。だから翻訳では駄目なのである。辛口批評は、日本語ジャーナリズムでは嫌われても、英語ジャーナリズムでは編集者の目を通って掲載されることがあるのだ。
批評のすさまじいギャップ
ことし1月、ジャパンタイムズに、ある展評が載った。C・B・リデル氏によるもので、取り上げられたのは東京都現代美術館が2月初めまで開催した若手作家のグループ展「MOTアニュアル2012 風が吹けば桶屋が儲かる」。これが英語でもまれに見る酷評だった。リデル氏は出品作家の一人、森田浩彰の展示の一つを「ゴミのスモーガスボード」とバッサリ。同じく奥村雄樹は「(美術家なんかじゃなく)幼稚園の先生にぴったり」。田中功起の映像は「ユーチューブにでも投稿すればよい」とこき下ろした。
「この展覧会の主な成果は、私に、東京都現代美術館が美術館であることを忘れさせたこと」と述べ「この作家たちがこうしたインチキを、美術館にお金を出す人たちに対してやらかさないことを、美術館で働く人たちのために願おう」と結んでいる。英語らしい皮肉である。「美術館にお金を出す人たち」とは都民あるいは納税者のこと。要するに、こんなふざけた展覧会をやっていたら東京都現代美術館はつぶれてしまうぞ、鑑賞者・納税者をなめるな――ということなのだ。「美術館で働く人たち」や美術館に関わる都の役人たちは、日本を代表する英字新聞にここまで書かれて平気なのだろうか。英語だから普通の日本人は読まないとでも思っているのか。
現代美術の受け止め方は人それぞれ。英語人でも、この展覧会を面白いと思った人はいるかもしれない。問題はそこではない。こうした厳しい批評が、日本語の新聞や雑誌にはまず掲載されないという現実である。この展覧会に限らない。日本語しか読めない人は、しばしば展覧会主催者側である新聞の美術欄の〝大本営発表〟や、作家やキュレーターとなれ合った美術雑誌のちょうちん記事しか読めない。これではまともな作家も鑑賞者も収集家も育たないし、美術市場は木鐸を失って腐る。
ちなみに、田中が出品する今回のベネチア・ビエンナーレ日本館が、どこかの小国と一緒にビリッケツの表彰を受けたといって大喜びのわが国の美術ジャーナリズムの程度の低さは笑える。99年の同ビエンナーレの際、ブラジルで最も有名な総合週刊誌のコラムに、同国のコラムニストのディオゴ・マイナルディ氏は「ブラジル館の展示は古くさく陳腐で最悪」と書いた。酷評が普通なのは英語圏だけではない。
日本代表が負けても温かく見守る日本の大甘サッカージャーナリズムと、セレソンが勝っても勝ち方が悪いと批判することがあるというブラジルの激辛サッカージャーナリズムとの比較、それぞれの結果の類比も面白そうだ。
日本の美術界の公用語は英語とし、批評は全て英語で書かれ、読まれるようにでもしないと、日本と世界の批評のギャップは埋められない。たいこ持ちなんか、いくらいたって、文化は成熟しない。
英語書けない教授はクビに
英文現代美術誌フラッシュアートの7-9月号に会田誠のインタビューが載った。いわく、ニューヨーク滞在中も英語が上達せず、現地の友達もできなかった。英語が下手なのを逆手に取ったパフォーマンスをしたとか、世界と距離を置くためには英語ができなくて助かったとか。恥ずかしいインタビューだ。現に米国その他で英語を駆使して活躍中の日本人美術家もたくさんいるという事実一つで、会田の情けなさが引き立つ。
自然科学では英語で論文を書き国際的学術誌に投稿することで世界に認められる。日本人でもそうした分野の学者は英語で書いている。専門は何であれ英語で文章を書けない人に、国から助成金を得る最高学府で人を教える資格はない。美術大学でも英語が公用語になって困る教員は即刻、辞めるべきである。
コラムニスト、美術ジャーナリスト 名古屋 覚(なごや・さとる)
1967年東京生まれ。早稲田大学第一文学部西洋史学専修卒業。卒論は「オルテガにおける歴史哲学の研究」。ジャパンタイムズ記者として都政などのあとクラシック音楽、ブラジルポップ音楽、能楽、西洋・東洋美術などを担当。以後フリーランス。95年から「Flash Art」日本通信員。これまでに「産経新聞」「毎日新聞」「信濃毎日新聞」「朝日新聞」「週刊金曜日」「美術手帖」、「ART AsiaPacific」(豪)、「Art on Paper」(ニューヨーク)などに寄稿。美術評論家連盟会員。秋田公立美術大学非常勤講師。この夏の集中講義では学生たちに、英語による激辛美術批評を読んでもらった。
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